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近藤康太郎 著『「あらすじ」だけで人生の意味が全部わかる世界の古典13』

『ガルガンチュワとパンタクリュエル』(全5巻)を読んでみようなんて思ったことある人ってなかなかいないんじゃないか。 いまの小説作法が通用しない中世の小説だし。でも、めっちゃ面白そう! なんなら、読んでみたい、と思わせてしまうのが近藤康太郎さんのすごいとこ。近藤さんは朝日新聞の記者で「アロハで田植え」が大評判だった朝日らしからぬロックな奇才。私はいままで新聞業界の人たちから色んなところで彼の名前を聞いてきた。文章を書かせたら天才だと。本書は何度読んでもすごい、マイベスト・ブックガイド(もう何年も)である。



この自己啓発本みたいなタイトルはちょっと誤解を生みそうだが、反面、古典に興味ある人なんて少ないだろうから、こういうタイトルにしておいて入り口を広げた編集者の気持ちはよくわかる。そして実際、本書は読まなきゃ損な本だ。本書で取り上げられる古典は、ラブレーのようにかなり異質なものから、親しみやすいとこでは鷗外、漱石、ドストエフスキー、面白いとこなら中島敦、そしてマルクスなど。それらを幹にして、稀代の本読みが読んできたその他さまざまな本の話が枝として広がる。



近藤さんは言う。人たらしになるなら古典を読み続けろ。



ツイッターやらフェイスブックやら最新のベストセラーやら、ネットで見た「ここだけの話」なんか、フックにならない。

町田康さんから「「本を読め」。別に1万冊読む必要はなくて、10冊でも、100冊でもいいから深く読め。100回でも200回でも読めって」という言葉を引き出してしまう男は本書を通してとにかく素振りのように古典を読め、理解できなくても馬鹿みたいにに目を動かせと言い続ける。



古典は、何百年も生き残ってきた、すべらない話の宝の山だ。 さて、ラブレーである。近藤さんはかつて、まだ「カリブ海の北朝鮮」扱いだったキューバで、決死の亡命体験を落語の独演会さながらに語る取材先、それを聞いていてゲラゲラ笑う村民らに対峙して、『ガルガンチュワとパンタグリュエル』を思い出す。巨人族の親子のでかすぎるスケールの、長すぎる話だ。たとえば尻を拭くためになにを使うのが気持ちよいかという話だけで一章分書いてあったりするナンセンスすぎる奇書だ。



近藤さんは言葉の垂れ流しみたいなラブレーの作法を町田康や中原昌也、ゴンブロヴィチに通じると指摘し、そして言う。



世の中のすべての「楽しみ」が、そうだ。楽しみとは、受け身では決して得られない。楽しみとは、楽しむから楽しいという、同語反復的な実在なのだ。 (中略) 小説家や新聞記者だけではない。いやしくも幸せになろうとする人はみな、上機嫌でなければならない。少し軽いこころもちでいなければならない。機嫌や気分なんてものは、「意志」の力でなんとでもなるものだから。

不幸に拘泥するな。



つまりこれが近藤さんがラブレーから得た教訓ってことだ。現代は不安と閉塞が多い時代だけれども、ラブレーの時代だって変わらない。ラブレーが生きた時代も戦争は各所であったし、飢饉も疫病もあった。そして、ラブレーの本はキリスト教会の逆鱗に触れ、禁書となったし、ラブレー本人もやばくなって亡命してもいる。そんななかで、くだらないことを書いて笑ってた。ラブレーまじすごくない?ってわけだ。



楽しいから、幸福だから笑うのではない。順番が逆だ。まずは笑ってみる。人生に運命なんかない。ただの偶然。さいころみたいな丁半ばくちだ。人生これ、ギャンブルなり。 (中略) 偶々起きることに拘泥するギャンブラーは、弱い。精神の快活さで、偶々起きることは蔑視し通す。洟も引っ掛けない。偶然の不運なんて、「おお、そう来たか」と笑ってやる。すると、偶々にしか過ぎない人生の、偶々起きることどもが、なんだかおかしくなる。面白きこともなき世が、面白くなる。順番が逆とは、そのことだ。

私は近藤さんのこういう思想、大好きだし、私にしてみれば、『ガルガンチュワとパンタグリュエル』を読んで、ここまで読んでしまう近藤さん、まじすごくない? なのである。





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