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自分があるようでない人の無邪気な怖さ『火葬人』

これは、怖い。後味の悪さがすごい。チェコ人でありながらホロコーストを書いた、ラジスラフ・フクスの『火葬人』だ。子どもの頃、同級生など身近にユダヤ人がいたという。



時代は第二次世界大戦勃発前夜。火葬場に勤めるコップフルキングル氏は、火葬によって魂は早く成仏?できるという信念のもと、職務にあたる勤勉なプラハ市民だ。クラシック音楽を愛で、家を絵画で飾り、黒髪の美しい妻、娘、息子を大切にしている。

(以下、ネタバレ含む)

あるとき、コップフルキングルはドイツ系の友人から、ドレスデンで存在感を強めているナチスの政治活動に参加していると知らされる。プラハもきな臭くなるなか、やはりドイツ系の血を引いている善良なコップフルキングルは、徐々に友人の思想に感化されていく。そして、親しく付き合っていた、ユダヤ人医師や同僚を売り渡し、ついには美しい黒髪の妻(つまりは)、女性的な振る舞いが目立ちはじめた息子(つまりは)に手をかける。

本書はコップフルキングルの語りに多くが割かれるのだけれど、うまいなと思うのは、恐ろしく饒舌なこの男のパーソナリティが、その発話量、情報量のわりにほとんど見えてこないこと。それらしい持論を理屈っぽく披露するんだけど、まったく頭に入ってこない。なんだこの、耳障りな床屋政談でも聞かされてる感じは? 

そして、読み進める途中で、私は気づく。ああ、こういう人っているなあ、と。しかも、本当によくいる。そこら中にいる。周囲の人の影響を丸呑みで受け、主体性がない。すぐに流される。それらしいことを喋ってはいても、所詮は誰かの受け売りなので実がない。つまり、面白くない。そういう人間の空疎さというのはなんとなくわかるもので、ただ空疎なくらいなら罪ではないが、そういう人間が極端な思想に絡め取られたら害悪になり得る。そして社会を見渡せば、いくら平和な日本であっても、ナチズムに置き換えられる現象はいくらでもある。たとえば、過激な右左、自然派、陰謀論。こういうものに感化されている人たちが「悪い人ではない」というのはよくあるわけで。本書はそのことを書いているから地味にじんわりと怖く、グロテスクだ。



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