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つまらぬ日常を美しい絵にするフィルターを持つ『掃除婦のための手引き書』

遅ればせながら手に取り、大ファンになってしまった。もちろん岸本佐知子さんの訳が素晴らしいのだけれど、とにかくかっこいいな、ルシア・ベルリン。



わたしはインディアンたちの服が回っている乾燥機を、目をちょっと寄り目にして眺めるのが好きだ。紫やオレンジや赤やピンクが一つに溶け合って、極彩色の渦巻きになる。

こういうちょっと誰も書かないような、でも言われてみたら想像できるし共感できるような描写によって、読者の私は「世界を眺める新たな視点」を発見し続ける。本書を読んだあとは、自分の日常さえもいつもと違うフィルターをかけた映像のように見えてくる。

情景描写や比喩は、それがどこかで読んだことあるような表現である場合、私はいつも興醒めしてしまう。「こう書くと手練れっぽいでしょ?」みたいな、筆者のあざとさが透けて見えるからだと思う。でも、ルシア・ベルリンの文章は、そういう嘘くさい情景描写や、「本当には感じでもいないけれど手癖で書いた」ような比喩表現とは対極にある。作品にアウトプットされた情景には、それを書かなければ作品として成立しない必然がある。全然、無駄がない。比喩には彼女にしか思いつかないオリジナリティがある。「ここらで比喩を入れてやろうか」と無理に頭を捻ったのではない。五感で取り込んだこと、つまり自分にしか感じ得なかったことをその通りに正直に書いている。

ターは絶対にバスに乗らなかった。乗ってる連中を見ると気が滅入ると言って。でもグレイハウンドバスの停車場は好きだった。よく二人でサンフランシスコやオークランドの停車場に出かけて行った。いちばん通ったのはオークランドのサンパブロ通りだった。サンパブロ通りに似ているからお前が好きだよと、前にターに言われたことがある。 ターはバークレーのゴミ捨て場に似ていた。あのゴミ捨て場に行くバスがあればいいのに。ニューメキシコが恋しくなると、二人でよくあそこに行った。殺風景で吹きっさらしで、カモメが砂漠のヨタカみたいに舞っている。どっちを向いても、上を見ても、空がある。ゴミのトラックがもうもうと土埃をあげてごとごと過ぎる。灰色の恐竜だ。

私は10代の頃から、感情に「オリジナル」のものなどないと思ってきた。「この悲しみは誰にもわかるわけない」と言いたくなるような経験があると、「いや、この悲しさを表現するあらゆる言葉を削ぎ落としてしまえば、そこに残る何か(=悲しみの本質)は、他の人が経験する大きな悲しみの本質と大差ない」と考えるようにしてきた。自分の感情を大仰に考えるな、よくあることだ、と戒めてきたということでもある。その考えは大筋ではいまも変わらない。

でも最近は、「オリジナルとは何か?」の定義をずらせば、オリジナルの感情はあるのかもしれないとも思うようになった。人間が持ち得る本質的な感情にはそうオリジナルなものはない。でも、感情そのものはソリッドであったとしても、それを飾る言葉にバリエーションがあるかぎり、その飾りにオリジナリティが宿るというのはまさに言葉の面白さでもある。つまり、言葉が感情を定義してしまう。

死んだ男を「バークレーのゴミ捨て場に似ている」と喩えた人の悲しみを、私は「想像は」できる。なんて悲しいのだろうと思う。でもその喩えが立ち現れてきた感情を本当には「体感(共感)は」できるわけがない。だとしたら、その悲しみのバリエーションはやはり、オリジナルなのかもしれない。


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