近藤康太郎さんから聞いて、読みたくなった本。圧倒された。近藤さんと言ってることが似ている。これから先も、折に触れては開くことになるだろう。
才能があっても耐久力がなかったらそれはとんでもなく恥ずべきことなのだ。居心地のいい罠にはまってしまうということで、褒められて舞い上がるということで、要するに短命で終わってしまうということなのだ。作家とは何冊か本を出版した作家のことではない。作家とは文学を教える作家のことではない。今現在、今夜、この瞬間、書くことができる者だけが作家なのだ。
実際、泥酔しているイメージが強いけど、ブコウスキーは書くことを決して手放さなかった。群れなかった。
30代から73歳で死ぬ前年まで。書簡を集めている。主には編集者たちに宛てたもの。書くことについて、詩について、40年にわたり憑依され、飽きもせず考え続ける。
どの頁にも、線を引きたくなるフレーズが見つかる。手紙はそのままブコウスキーその人、つまり彼が書く詩や作品と同様のテンションで読ませる。口が悪い。でも思うほどはルードではなく、ポライト。毒にはユーモアがあり、笑える。
40年を追っていくと、晩年は神がかってくる。
何もかもいちばんうまくいくのは、何を書くのか書き手が決めるのではなく、書かれることが書き手を選ぶ時だ。それは書きたいことがいっぱいで書き手が正気を無くしてしまっている時、書くことが書き手の耳の中、鼻の穴の中、指の爪の中までいっぱい詰まってしまっている時。書く以外何の希望もなくなってしまう時。
耳の中=聴覚、鼻の穴の中=嗅覚、爪の中=あらゆる小さな触覚だと捉えると、「五感と思考が言葉をコントロールする」のではない。言葉のほうが五感と思考を支配してしまう。ブコウスキーはそのような状態を言っているのだ、と読んだ。言葉が、表現が、自ずとみなぎり、溢れ出す様子が伝わってくる。70代にして、あんまり瑞々しい。すごい。
死ぬ前年の手紙がまた、いい。
ありがとう、新しい年はわたしにとても親切だ。つまり、言葉がわたしに向かって、形となって湧き起こり、舞いながら飛んでくるということだ。どんどん年老いていくにつれて、この魔法のような狂気がますますわたしを包み込むかのようだ。奇妙で仕方がないのだが、わたしはおとなしく受け入れることにしよう。
この境地。神をつくるのはたぶん執念だ。
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チャールズ・ブコウスキー著/アベル・デブリット編/中川五郎訳『書こうとするな、ただ書け ブコウスキー書簡集』
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