痺れる。舞台はテキサスの田舎町。涼しい顔で殺りまくる保安官助手ルー・フォードのモノローグで展開する。サディストでサイコパス。しかし外ヅラはむしろよく、饒舌でとぼけている。多数、人が死ぬんだが、なぜかカラッとしている。日本のクライムなら、似た殺人鬼像を創ってももっとウェットな仕上がりになりそうだ。
笑いを生む条件として「緊張の緩和理論」を唱えたのは桂枝雀だが、ルー・フォードの殺しにはこれが当てはまる。変な笑いがこみあげてくる。そんな自分がちょっと怖い。
先の殺しを隠蔽するため、目をかけていた不良少年に罪を被せて殺すシーンでは、いきなり旧約聖書の真似事を誦じる。
「平和のときがあり」おれは言った。「戦いのときがある。種まくときがあり、刈り取りのときがある。生きるべきときがあり、死すべきときが……」
こんなん、めちゃ怖い。が、何言ってんだか、わからない。説得力ある風だけど、無茶苦茶である。で、手刀一発で少年の気管をつぶす。
「おれもつらいんだ」おれは言った。「おまえ以上につらいんだよ」
ええええ……。実際、本気で悲しそうだし。
一事が万事こんな調子なんだけど、ルー・フォードが殺人鬼に仕上がる背景には哀しい事情がある。
ここはねじくれた、くそみたいな世界なんだ。いつまで経ってもこのままだと思うぞ。なぜだかわかるか? おれたちみんなが、ほとんど全部の人間が、このままで別にいいんじゃないかと思っているからだよ。
明らかに破滅に向かっていくルー・フォードのハッピーエンドをなぜか願いながら読んだのは、彼を憎めないからだ。全盛期のヴィンセント・ギャロに映画化してほしいような、ひりついた可笑しさがあった。
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