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『論理哲学論考』を読んでいると言ったら、献本いただいた本。最強の副読本です、これ。ちょうど同じ時期に『哲学探究』のほうを読んでいたわたしの著者(であり、読書友だちの近藤康太郎さん)に、本書を紹介したら、AERAの書評で取り上げていた。

本書からは、哲学的な語彙を極力避けながらウィトの思想を説明しようとする姿勢が伝わってくる。非常に読みやすい。とはいえ、サクサク読むことが必ずしもよいともかぎらない。本書を読み進める作業は、中村昇さんが伝えんとすることをじっくり理解しようとしながら読んでいく作業だ。

私は本をつくるとき、できるだけサクサク読めるよう意識する。でも、ぶっちゃけ、そのことが必ずしもよいとは“全く”思っていない。折に触れて私がウィトゲンシュタインを読むのは、そうした“自分がやっている作業は全くよくないのではないか”という感覚を強烈に思い出させてくれるからだ。

どうしようもなく「完全な意味ではわかり合えるわけがない」感情を言語という抽象的な共有概念で、なんとかわからせようとする営為が「書くこと」であり、「話すこと」であり、主体のその格闘を受け止めようとする行為が「読むこと」であり、「聴くこと」だろうという、ぼんやりした感覚だけはある。

そんなわけで、本書『最初の一歩』でドンピシャで心に嵌ったのは「語りえないもの」の章。

論理ってなによ?

「わかる」とはそもそもなによ?

「わかる」なんてあるのか? 

というのは、私の長年の(たぶん人生の)テーマなんだけど、これについてウィトゲンシュタインは「語りえないものについては、沈黙しなければならない」という、超クールな〆でもって『論考』を終えている。そして、私はこの美しい〆が大好きなのだけれども、それこそ、わかったような気にさせられているだけで、何もわかってない。

そこに中村さんの解説が添えられる効果は、停滞していた思考をまた動かしてくれたことにある。

ウィトゲンシュタインに挑戦した結果…己もまた死屍累々を成す者と成り果てた自覚を持つ者、あるいはこれから読んでみたいと思っている者に全力で勧めたい本です。

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