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佐々木ののか 著『愛と家族を探して』



「はじめに」にいきなり、こうある。



誰かのために書いたわけではない。こんな言い方が許されるのであれば、取材対象者の方々のご協力を得ながら、私が私のために書いたものだ。



正直で強い人だと好感を持った。否、散々、自身のあり方、生き方に悩み、恋に傷ついた経緯があるから、日々、身に降りかかることに対して鷹揚にはいられない、鋭敏で混沌とした心を抱えた人なのだと思う。でも、そんなとき、彼女は正面から人に「聞き」に行く。ぐるぐると「考え」、「書く」ことで、自分なりに「折り合いをつける」。そうできることは、強みだと私は思う。



いろんな人が出てくる。一様に「常識的な家族」像からは逸脱した「自分なりの家族」をつくった人ばかりだ。いろんな人たちから批判され非難されたりするんだろうな。めっちゃストレスだろうな。なんて思いを馳せる。



「他人は他人」と割り切れない人、つまり自分と他者の境界を悠々と乗り越えてくる人は「他者への基本的な期待値が大きい」という意味で、優しいのかもしれない。ただ、その期待は結局誰のためのものなのか? エゴではないのか? そこを見失うと自分の世界はどんどん狭量になっていく。



そんな思いを深めながら読み進めていくと、著者が自分自身の話として書いていた。うまくいかない相手とのことを、周囲の人たちは正論で諭し、彼女自身も一緒になって相手のことを悪く言ってはみる。



けれど、そうやって彼を悪く言えば言うほど、寄る辺がなくなっていく気がした。なぜなら彼は当時の私のすべてだったのだ。



いわゆる「そんな彼なら捨てちゃえば」というアレだ。でも、アレほど意味のないフレーズってなくないですか? 親しい友人たちが恋に苦しむ当事者を正論でもって諭す。様式美としての価値はある。でも意味がない。思いやりもない。正論を言うとき、その気持ちの根元は「人の恋を否定したい気持ち」に他ならない。それは当事者を否定することだ。だからこそ、正論は様式美的に、軽く言ってはいけない。自戒を込めてメモしておきたい。



結論を出すのはお前ではない。まず当事者の話を聞け。深く聞け。当事者は自己肯定感が揺らいでいるから、お前に打ち明けているのだ。それを否定するとか人としてヤバいだろ。



見失うと自分の世界を狭くする。




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