「あのとき、何してた?」という話題にのぼるような日が、ある。私が生まれるより前の、昭和のそんな一日に「楯の会事件」があるだろう。昭和45年11月25日。
中川右介著『昭和45年11月25日』は、大量の文献引用から一冊を構成する趣向を取る。戯曲『サド侯爵夫人』の形式を借りているという。サド侯爵の周囲の六人の女たちが、侯爵について語る。それにより、サド侯爵という人物が浮かび上がる、あれ。三島由紀夫の戯曲の代表作だ。
三島さんが自裁した、その日、その時、誰が、何をしていたのか? 著者は公の文献として残っている記録から、「盾の会事件」に接した人々の感慨を次々と抽出していく。読者の理解を促すために客観的な状況解説は加えるが、その筆は極力、無色であろうとしている。決してうるさくはならない塩梅の説明によって、読者である私は展開を時系列に踏みながら、事実を淡々と追っていくことになる。全編、約百二十名の人物の証言の羅列。これが、異様な迫力なのである。まるで群像劇。
■大宅壮一宅 二十二日に亡くなった大宅壮一の妻、大宅昌はこう語っている。 《三島由紀夫さんが切腹なすったという特別番組が画面にうつし出された時、私はテレビを大宅の祭壇のほうへ向けてやりました。主人なら、いま何というだろうと思って……。》(P114)
■勝新太郎 俳優勝新太郎は、翌年一月に公開予定の『新座頭市 破れ!唐人剣』の撮影中だった。 一九六九年の映画『人斬り』で三島と勝は共演していた。(略) 三島は勝が気に入り、「親切ないい人だ」と、その頃会う人ごとに言っていた。 事件を知った勝は「今日はもうやめる」と、半分泣きながら言って、撮影は中止となった。(同書P177)
青山斎場で細川護立の葬儀に出ていた川端康成が、そこで松本重治から事件について聞かされて、そのまま市ヶ谷に向かった場面(つまり、川端は喪服で市ヶ谷に到着)。
■市ヶ谷、自衛隊駐屯地 川端が着いて間もなくして、石原慎太郎も到着した。(略) 《たった今ああした事件が起こったばかりなのに、あるいはそのせいなのか、兵隊たちはそこら中でてんでんばらばらに暇つぶしをしてい、ある者たちはむきだしの地面の上で銃剣術の練習をしてい、ある者たちはただしゃがんで煙草を吸っていた。》 こうした光景がいつものことなのか、思いもかけぬ大事件の興奮の後だからなのか、石原にはわらかなかった。彼がよく分かったのは、《ともかくも命を懸けた三島氏の行動に結局誰一人応える者はなく、氏のあの絶叫の呼び掛けが全くの徒労に終わったということのいわれ》だった。(同書P188)
個々の体験が、並ぶ。どこまでも、ひたすら、並ぶ。
三島夫妻と親しく付き合う一方で、「政府に対する反乱」の意味を持つ事件に接して、複雑なお悔やみの感情を抱かざるを得なかった宰相佐藤栄作の妻。西荻窪から福生市へ引っ越す途中、ドライブインのニュースで事件を知った十八歳の青年が、村上龍であったということ。新宿の雀荘でヤクザ者の口から事件について聞いた十九歳の文学青年が浅田次郎であったこと。事件のまさにその日、井出孫六が傍聴していたのが永山則夫の裁判で、永山がこの日「日本人民を覚醒させる目的で以て、天皇一家をテロルで暗殺しろ!」と叫んだこと。文化放送に到着するなり事件の一報を知らされた堤清二は、緊急座談番組に駆り出され、出演者たちの三島批判に立腹し「事情がよく分かりませんが、どんな理由があったにせよ、僕の三島由紀夫を敬愛する気持ちは変わりません」と言ったこと。
個人の視点から一つの事件を丹念に照らすことによって、当時の日本社会にその事件がどう捉えられたかが浮かび上がってくる。そんな気がするのが、本書の凄みだ。
蛇足だが、いちばん驚いたのは、私がかつて一時期を共にした人物の記録も取り上げられていたことだ。私が知らぬ当時の一面が見えて、それなりに感慨深かった。
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