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※2020年5月3日のnoteを再掲


煮詰まっていないかと聞かれることが増えた。それが、まったくそうでもなくて、なんかほんまにごめんなさい、世間。目を閉じれば、どこにだって行けるしね。


旅に出るのは、たしかに有益だ、旅は想像力を働かせる。これ以外のものはすべて失望と疲労を与えるだけだ。ぼくの旅は完全に想像のものだ。それが強みだ。


これは生から死への旅だ。ひとも、けものも、街も、自然も一切が想像のものだ。小説、つまりまったくの作り話だ。辞書もそう定義している。まちがいない。それに第一、これはだれにだってできるものだ。目を閉じさえすればよい。すると人生の向こう側だ。 ――セリーヌ/生田耕作訳『夜の果てへの旅』

在宅で仕事するようになった直後はペースをつかめずに苦戦した。朝の情報番組からの、お腹がすきました。つくって食べました。ちょろっと原稿を読みました。頭に入りません。テレビつけました。『相棒』つい見ました。からの、そのまま昼寝しました。夜でした。風呂入りました。おやすみなさい。スヤァーーー。あかんやろ…。



付き合いがあるのは何らかのかたちで「本の著者」であるということが多いのだけれど、コロナ禍の処し方は見事なほど2つのタイプに分かれている。伝染病の恐怖と社会のざわつきとに取るもの手につかずになるか、あるいは出歩けない間に仕事のペースを上げるか。どちらがいいということを言っているのではない。物を書く人は日々の空気を全身で受け止めること、日々を生き抜き(←ここ大事)、そしてやがてアウトプットする(←ここもっと大事)のが仕事だから。人それぞれの今を受け止めながら生きていれば、それでいい。アッパー系でもダウナー系でもね。


でも私は? お前はどうやねん? アウトプットさせる稼業のお前が、食っちゃ寝してる場合かよ? 取るもの手につかず、ってか、食っちゃ寝はできとるやないか! 変な時間に目が覚めたある夜中、ぐるぐる考え込んでしまった。なんせ、昼寝もたっぷりだ。そうはたくさん眠れますまい。


かつて、ある人に言われ、ずっと大切にしてきた言葉がある。私の著者ではなかったけれど、いつも原稿を書くとなぜか真っ先に見せてくれた人だ。こちらも忙しいので読まずにスルーするときもあった。わりと丁寧に感想を返すときも、おもしろかったと一言返すだけのときもあった。迷惑だと思ったことはいちどもなかったし、楽しみにしていた。とはいえ、担当でもないのに悪いなぁという気持ちもあったし、聞いてみたことがある。その答えが、賽銭箱。「近所の神社を通りかかるとき、とりあえず小銭放り込んで手たたくでしょ。あなた、あれです」。


えっ、賽銭箱? どうせなら神様と言われたかったよね。とりあえずみんな名前の漢字かっこいいし、カリスマ性あるし、なんならご利益がありそうだし。ところが、まさかの、箱ですか。


賽銭箱は人の願いや不安を受け止める装置だ。どんな理不尽も吸収する。世界平和から、不倫成就まで。一円玉数枚ではその願いさすがに重すぎるやろ…とも言わずに。ただじっと、そこにある。


いまとなってはそう理解しているし、書き手にとって自分がそういう存在でいられるのなら、めっちゃハッピーだ。


どうせ世の中はクソだ。それはなにも今だけのことではない。どんな状況であってもやがて不満を持つようになるのが人間だろうし。「現状に満足しない」ということは、人を「今ここ」にある状態から前に歩ませる強力な燃料でもある。まして、最低限の生活まで脅かされている今の絶望にあってはなおのこと。


けれども、眠れなかったあの夜中、最終的に私は思ったんである。今ある不満を大部の声にするのとはもちろん必要だ。でも明日、急に靄が晴れるかといえば決してそうではない。ではこの日常をどうする? お前はどうする? 私? 私は、ご機嫌でありたいです。なぜって鬱屈した空気にあてられて、自分まで沈み込むのは疲れるし、それって結局、ちょっと自分が損だから。


翌日から私は生活を変えた。


・ 夜までテレビをつけない

・ 平日は「絶対に!」飲まない

・ 定位置で仕事する(間違っても寝っ転がったままPCを使用しない)

・ 早く寝て早く起きる


だから、今は恐ろしく平穏。そして、日々いろんな人から届く「煮詰まってない?」の裏に込められた、そう問うてきた人たちの煮詰まりが何なのかを受け止めようとしている。話を聞く。笑う。相手も笑う。そして、なんとなく気分よく別れる。私は堂々とした賽銭箱でありたい。

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