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〔あの日近藤さんが来ていたTシャツの色に似たカナリヤイエローの芍薬〕

職業柄いただけないとは思ってはいるのだけれど、自己啓発書の棚に並ぶ本をほとんど買わない。もちろんいい本もある。が、圧倒的な高確率で自分にはしっくり来ないのを知っているから、つい違う棚に逃げてしまう。パンチライン、アフォリズム。そうしたものが多用されるほど、どうにも白けた気持ちになってしまって、キャッチーな、そこだけ読めば、まったくそのとおりだなと思えるフレーズを素直に受け取れないのだ。


そんな私が、なぜか自己啓発書をつくった。タイトルを『ワーク・イズ・ライフ 宇宙一チャラい仕事論』という。大切な著者との三冊目の仕事だ。メッセージはシンプルだ。


〈仕事〉〈勉強〉〈遊び〉 幸せとは、この大三角から成り立っている。 ――近藤康太郎『宇宙一チャラい仕事論』

前二冊と違ってノウハウ/実用要素が鳴りを潜め、直球の「幸福論(人生論)」である本書は、「結果として」自己啓発書と呼ばれることになるだろう。著者の近藤康太郎さんは心に残るフレーズをリズミカルに繰り出す書き手だし、人を「その気にさせる」才がある。でも、私はこの人の言葉には白けない。そうわかっていたから、がっかりしない自己啓発書をつくることができるはずだと思った。


***


青山ブックセンターの色紙を書いてもらう用で待ち合わせたのは、初夏の日和の休日だった。どろどろの二日酔いで、ジーンズにTシャツという捻りのない格好をしていた。かろうじて足元だけは緑色の7センチヒールを引っ掛けて家を出た。相変わらずかっこいいねぇ。近藤さんは言った。相変わらず抜け目あらへんねぇ。私は思った。


ファミリーで賑わうキャッシュオンデリバリーの店に入り席を取った。ビールを二つ買って来てくれた。ビーラーだからね。グラスを合わせて、さっそく色紙を書いてもらった。「あれ、漢詩と違うんですか」なんて言いながら、色紙を掲げて、お互い写真を撮り合った。シャッターボタンをタップしながら、こんなふうに改まって写真を撮ったこともあまりなかったな、と思った。


私の知る近藤さんはアロハの人ではない。読者の前に立つ機会を除くと、私は近藤さんがアロハを着ているのをほとんど見たことがない。2019年の夏に初めてお会いしたときと(あのときも前代未聞の二日酔いだったな)、次と。記憶するかぎりたった二度だけだ。当時はまだ、今後仕事をする相手である私への処し方が「よそゆき」だったんだろう。


そんなわけで、私は「非アロハ」バージョンの近藤さんのほうがずっと好きだ。つくられた記号じゃない感じがするから。私と一緒に本をつくった人という感じがするから。近藤さん自身は「非アロハ非近藤康太郎(アロハにあらずんば近藤康太郎にあらず)」くらいに思っている節がある。けれども私は、セルフプロデュースでガチガチの「近藤康太郎」を提示されるといたたまれなくなる。自分でつくった鋳型に流し込んだ規格品のような姿は苦しそうに見えることがよくあるし、少しは溶かして見せてほしいと思ってしまう。


目の前にいる不確かな、本人もそのおもしろさをよくわかっていない、複雑で(かなり!)ズレていて解釈の難しい人間が、新しい何か、今まで隠れていた、あるいは隠してきた何かを世に放つ。私はそのトリガーになりたかった。いや、なる必要があった。かつては読者だった。でもいまは、編集者、つまり〈仕事〉相手になったのだから。


シャッターボタン、タップ、もう一度。


サングラスなし、カナリヤイエローのTシャツ姿の近藤さんは、画像データ「IMG_2440.HEIF」「IMG_2441.HEIF」として私の iPhone15 に収まった。「アロハで武装」バージョンじゃない近藤さんは丸腰の武士みたいなもんなので、写真をここに上げるわけにはいかない。今後誰かに見せることもないだろうから、私しか見ない写真ってことになる。



汚さないよう色紙を仕舞ってから、一緒につくった三冊の本にサインを入れてもらった。


『三行で撃つ』

『百冊で耕す』

『宇宙一チャラい仕事論』


二〇一九年から仕事をしてきて五年、近藤さんが読者にサインする場面には何度も立ち合ってきたのに、今さらだ。でも、なかなか言えないものだとも思う。「サインして」なんて、照れ臭いったら、ないでしょう。


案の定、言われたほうも困惑してたけど、それでもずいぶん時間をかけて考えて、書いてくれた。近藤さんのサインは何百と見てきたから、私の本に入れてくれた漢詩はすべて、他のどこにも書かなかったものだとわかった。「悪筆、っていうより、なんか、書き慣れてないっつうか。ぎくしゃく、ガタピシしてるんだよなあ。ほんとにライターやってきたのかな」なんて、かつて本人は言っていたけれども、私はいかにも不器用なその字が、とても好きだ。



真面目で力の抜き方を知らない人の手で、一文字一文字、漢字を丁寧に記していく。日本語の名訳のほうがあまりに有名になったその漢詩を知らないほど、私もさすがに昏くはない。詩を反芻しながら筆の運びを眺めていると、いろんな出来事が思い出されて、胸が詰まった。


近藤さんは何事においてもそうだった。力を抜くこと、適当にいなすことができない。十五分のタイマーをかけ、寸暇を惜しんで本を読んでいる。本を次々切り替えながら最低二時間、毎日読む。交差点でも読む。ポケットには、抜書きをさらに厳選したフレーズ集(単語帳)が入っている。数学という言語に魅せられて、毎朝数学の問題を解くことを何年も続けている。風呂では原文で源氏物語を少しずつ読み、ついに柏木が死ぬとこだと言っていた。そう決めたら、いい訳せずに〈勉強〉する。今シーズンは必ずこれだけの射撃の練習をする。そう決めたら、誰よりも弾を撃つ。いつ電話しても、必ず音楽を聴いている。新譜を聴けば、すべて記録する。力を抜かず〈遊び〉をしている。


仕事が忙しくて、勉強をする時間がない。遊びなんて、いまはとんでもない。二日酔いで今朝は原稿が書けない。大事な接待相手だから仕方がなかったんだ。親の介護で、仕事が手につかない。彼氏/彼女と別れて、文章なんて書く気になれない。子供が熱を出した。カネがない。時間がない。やる気が出ない……。 言い訳すんな。どんなことにも、言い訳はできるんだ。言い訳を考えてると、短い人生なんて、あっという間に終わっちまう。 書け。 書いて、言い訳しろ。 あらゆる芸術は、自己弁護である。 ――近藤康太郎『ワーク・イズ・ライフ 宇宙一チャラい仕事論』

近藤さんとの三冊目。自己啓発書の良い読者でない私が、自己啓発的な仕事論をつくってしまったのは、結局のところ、近藤さんの言葉には、嘘も誇張もないことを知っているからだろう。自己啓発書にありがちな、力強い名句、美辞麗句、それらしい警告、コピーめいた何か。そこだけ切り取れば、まったく正しいはずのフレーズに白けてしまうことが多いのは、私という人間が、言葉を信じようとしながら、同時に言葉を信じていないせいだ。


言葉はそのフレーズだけでは単なる空疎なハリボテだ。ギラギラとしたフレーズの背景に、個人の経験、思考、すなわち書き手の人生を伴ってこそ、はじめて読むに値する実を持つ。だから、いい文章を書くには善く生きなくてはならないし、言葉を使って生きている私たちは善く生きなければ虚しい人間になってしまうのだ。


いい人になる。おもしろい人になる。自分で信じられる、「自分」になる。 ――同書

三冊目の原稿を読むうちに改めてわかったことは、私は近藤さんの言葉を信じているということだった。裏切られるわけがないのを知っている、ということだった。二十年以上、読んできたから。


近藤さんの言葉は強い。強くて、一文字一文字に思想が満ち満ちている。汗で書く。実感を伴った言葉しか決して書かない。適当なことは絶対に書かない。言葉には嘘をつかないと決めている。そういう人だと知っているから、私は「結果として」自己啓発書と呼ばれることになる本を、自分はあくまで思想家の本のつもりでつくったのだった。


五年。

三冊。


近藤さんにしか書けなかったし、私にしかつくれなかった。私たちが組み合わさったからあの形になった。


「しかしさぁ、おれらあんなに喧嘩することもなかったよねぇ」

「高円寺とかひどかったけど、なんであんなに揉めたんやっけ?」

「忘れたよねぇ。あんな喧嘩、二十代じゃねぇんだからさあ。でも今は笑い話だからいいんだよ」


近藤さんと私は、紛れもなく〈仕事〉で結びついてきた。でも、今となっては不思議なほど〈仕事〉をめぐる会話を思い出さない。思い出されるのは、めちゃくちゃ笑ったこと、噛み殺しあいにでもなりかねないあまたの喧嘩のこと。


〈仕事〉〈勉強〉〈遊び〉幸せの大三角

私たちはいつも、どうでもいい話をしていた。一冊目ができるまでにやり取りしたメールの字数を数えたら十五万字以上あった。それ以降のはもう、数えることさえあきらめた。何を見た、何を聴いた、何を読んだ、こんなことがあった。無数の対話のほとんどが雑談だった。〈遊び〉の話であり、いま夢中になっている〈勉強〉の話だった。〈仕事〉に不誠実だったわけでない。それどころか真剣に〈仕事〉するほど、思考がいつも大きく脇にそれるようなところがあった。一見、何も関係ないような話はすべて、自分たちの内部でそれぞれに消化され、再び〈仕事〉の形になって現前しただけのことだ。


一生をかけてしゃぶり尽くす、自分の「骨」を知る。歯を食いしばって〈遊び〉、自分で自分を律する〈勉強〉を経て、自発的に創りあげる〈仕事〉に結実する。大三角の永久循環運動。幸せとは、このことだったんです。 ――同書

五年。

三冊。


言葉にならない。


〈言葉にならない感情、言葉に落とせない思想は、存在しない。言葉にならないのではない。はなから感じていないし、考えてさえいないのだ〉(近藤康太郎『三行で撃つ』)って、言われそうだけど。


目を赤くしていたせいか、近藤さんが言った。


「別れなければ、きみ、また会えないじゃないか」


最近お気に入りらしい、先代圓楽師匠の「円楽のプレイボーイ講座 12章」だ。せり上がってきていた感傷の涙が、体感でわかるほど見事にドン引きしちゃって、こちらもついつい乗せられて、先代の「柳田格之進」が格別に良かった話など始めてしまった。圓楽からの志ん朝、松鶴家千とせ、そして互いに大好きな大木こだまひびき……。


で、なんでこんな話してるんやっけ? 大笑いしながら、五年ものあいだ、自分はこの人と何をしてきたのか、よくわからなくなった。〈仕事〉? そうだったかもしれない。そうなんだけど、最高の〈勉強〉をさせてもらったとも言えるし、ずっと飽きることがない〈遊び〉をしていたような気もしている。


If this isn't nice I don't know what is. 「これが幸せでなきゃ、いったい何が幸せだっていうんだ」 ――同書より、ヴォネガット「国のない男」(金原瑞人 訳)の引用


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