※ 発売前だし、ネタバレしないよう書いたつもり
先週、ネックレスを一本、駄目にしてしまいました。つらいです。
村井理子著『家族』に描かれた、村井さんのご家族のややこしさは、絡まってしまったネックレスの鎖みたいだと思った。めっちゃくちゃ華奢な鎖のやつ。鎖は繊細なほど、しつこく複雑に絡みつき、簡単には解けない。
息をのんで、一気に読んだ。2時間半くらい。ページを捲る手が止まらず、読み終わる頃には日が落ちて、部屋は暗くなっていた。灯りをつけるのも忘れるほど、のめり込んだ。鳥目と涙腺の決壊(どこで、とはここでは言わない)のコンビネーションで、目が満身創痍。身ではなく、目だけれども。
父、母、兄、妹(村井さん)。物語は村井さんの一人称で運ぶ。お洒落なご両親は港町でジャズ喫茶を経営していた。諍いを避けるために気を遣いまくりの村井さんは、子どもの頃からどこまでも村井さんだ。表情まで目に浮かぶよう。道路に金魚を並べてしまうお兄ちゃんは確かに問題児ではあるものの、ややこし過ぎて手に負えない人たちで構成されるエキセントリックな家族、というわけでは、決してない。しかし、一家を「家族というチーム」とするならば、そこには確実に不和がある。
不和とは、たとえば誰かが刑事事件を犯したことにより一家に歪みが……といった、第三者の目にわかりやすいような問題ではない。簡単には文字化できないような、うまく説明できないような、そもそも何が悪くてそうなってしまったのかもわからないような、きわめて曖昧な、家族というチームの「内に向かう」ような問題だ。そのわかりにくさを村井さんは丹念に言語化しようとする。茫漠としていた問題に、言語という形を与えていくことで、曖昧さを可視化する。まるで、消化不良だった家族との関係を消化していくような筆。
息の詰まる場面が、ガス抜きされずに積み重なり、そうして一家の日常が続いていく。
父に好かれるために、母に安心してもらうために、私は一瞬でメニューを選んだ。そのたびに母が「あなたは本当に賢い」と言うのを楽しみにしていた。お子様ランチ。お子様プレート。それを選べば誰もが幸せになれる。少なくとも、両親は。自分が食べたいものを選ぶなんてことは二の次で、いかに早くメニューを選ぶか、いかに両親を待たせないか、それだけに集中した。お子様ランチがなければ、父や母と同じものを頼めばいい。そうすれば兄のようにみっともない姿を晒さずに済む。(村井理子『家族』P23)
たとえば外食のシーン。これだけで、ひどく緊張する。やんちゃだが優しい兄、兄にことさら冷たく当たる父、戸惑いがちで本心がわかりにくい母、立ち回り方を知っている賢い妹。誰が決定的に悪い、というわけではない。そして、全員が全員に対していろんな感情を抱えてはいるものの、誰かが誰かを決定的に憎みきっている、というわけでもない。村井さんのご家族に、己の家族を投影してしまう理由は、この感覚がリアルだからだ。
ほとんどは取るに足らないような、小さな違和だったのだと思う。でも、それらは年月を経るごとに複雑に絡みあい、堅い結び目みたいになって、気がついたときには解き難くなってしまっていた。そんな感じ。
ときにこうした問題は、家族でなければ、かえってややこしくはならずに済む。何某かの微妙な違和が起きる。そのとき、他人どうしであれば、わりと早い段階、つまり問題が複雑化する前に、心を尽くしてなんとかそれをおさめようとする。あるいは、なんとかせずに離れる。決裂する。どうあれ、放置せず、着地させようとする。でも、家族は、そうはいかない。長く続く関係であるという前提のもと、家族は、そこに、在る。面倒でも捨てきれない。問題ごと全部、ひとまとめにして、ずっと、在る。
ガチガチに絡まった鎖は、力任せに引っ張ると、切れる。そういうこともわかるものだから、できれば見ないふりをして、そっとしておきたい。でも、そうしているうちに、気が付けば取り返しがつかなくなっていたりする。村井さんは、父を亡くし、母を亡くし、兄を亡くす。村井さんが一人ぼっちになった時点で、問題そのものは消滅する。何を正すべきで、何を正さないべきで、何が悪くて、どうしてこうなったのか。それに対する答え合わせなどなしに、ただ消滅する。『家族』という作品が収束するとき、「家族は、ずっと、在る」という前提は、幻でしかないということを再認識させられる。
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