top of page

2021年の大晦日だった。石川さゆりさんは、天城を越えるのか、あるいはこごえそうな鷗を見つめ泣くのか。知らないまま年を越すことになりそうだ。とはいえ、「今井」の蕎麦をすする頃には昼間の酒は抜け、頭は冴えていた。酒を抜いて新年を迎えることができるという誇らしさで、万能感に支配されてさえいた。で、


万能の私は、本を読むのである。

仕事に「まったく関係ない」本を読むのである(という強い意思)。


〔『千年の読書』三砂慶明 著(誠文堂新光社)〕

手に取ったのは、梅田蔦屋書店の書店員・三砂慶明さんによる読書エッセイ『千年の読書 人生を変える本との出会い』。この本が2021年の読み納めになった。


三砂さんとは、知らない間柄ではない。書店員と話す機会は多いが、私は妙に三砂さんが好きなのだ。本を愛しているのに、商売っ気があるんだか、ないんだかよくわからない。そんな飄々としたスタイルを信頼している。


「親友が子どもを事故で亡くして、一年近く外出できなくなりました。親友を励ましてくれる本を選んでもらえませんか?」 問い合わせを受けたとき、自分はこの先この仕事を続けていけるのか不安になりました。どれだけ勉強してキャリアを積んだとしても、この質問に答えられるイメージが湧かなかったからです。

こんな調子の人なのだ。


その日、お客様の話を〈黙って聴くことしかできなかった〉三砂さんは、この問い合わせを大きな宿題と捉える。そして、読書を通じて「人間にとって死とは何か」について考えるようになる。『LIFE SPAN』『NEO HUMAN』、キューブラー・ロスの著作群、『「死」とは何か』といったベストセラーにはじまり、思想書につないで、自分なりに咀嚼しては考え、問いに立ち向かい続ける。思考の格闘が、中島らもの『僕にはわからない』でもって、いったん謎の勢いで収束する。そのヌーベルヴァーグ的幕切れっぷりには、完全に置いて行かれた感じがして、ちょっと笑う。でも、逡巡とはそういうものだとも思う。ぜひ実際に読んで確かめてみてほしい。


死とは何か? だけではない。生きているだけで、否応なくまとわりついてくる問いがある。カネ、仕事、生きづらさ、幸せ。こうした問いは普段、そこそこに生きているときは強く意識しない。しかし、あれ? 自分、そこそこから外れてない? と気づいたときには心を苛むし、打ちのめす。『千年の読書』では、こうした、ぶっちゃけいくら本を読んだところで答えなぞ出ようはずがない命題を、各章で取り扱う。


ではせめて、答えに近づくにはどうするか? 書店員である三砂さんは迷わずに言う。


こうした暗く閉じた未来を、さっと開け放ってくれる四角い窓が、本屋にいけば無数に開いています。もちろん、その扉は映画だったり、音楽であったり、友との会話だったり、目の前の風景であったり、見上げた雲の形かもしれません。でも、私は本屋で働いているので、この窓が本であったらいいなと願います。

そして本人も、本という杖を頼りにして、ゴールなき道を、つまずき、立ち止まり、涙し、時に突然開けた視界に心打たれたりしながら、歩む。孤独に、頼りなく、しかし、絶対にあきらめずに歩んでゆく。


その時、その場所を歩いた者にしか見えない景色がある。それを三砂さんは次々と見つけていく。三砂さんが見た景色は、本の作者でさえ見ていなかった風景かもしれない。作者が特に意識して足を止めなかった場所から眺めた風景かもしれない。紙に印刷された無数の文字の羅列。そのどこに焦点を当てるかは、結局のところ文字を拾っていく側、つまり読者の「その時」の、在りかたによってのみ、決まる。明け方まで没頭して『エンデュアランス号漂流』を読み終えた三砂さんが、読み終えると猛烈に空腹を自覚し、アパート近くの立ち食いそば屋に駆け込む描写のなんと、清らかなことか。


読もうとするから、読める。

読むことを通じて何を拾うのか。

拾うものを見つける力が感受性だ。

拾えるか? 

責任はすべて、自分のほうにある。


そんな気がしてくるのが、読むことの良さだ。本は向こうから不甲斐ない自分を気遣ってくれたりはしない。ブツとして、文字が印刷された紙の束として、ただそこに、在る。その「干渉してこなさ」を私は愛してきた。どうしようもないときほど、一人になりたかった。暗闇にはいつも、人の代わりに、本が在った。そして、三砂さんにもまた、暗闇に沈み込んだ経験があったらしい。


〝ぐっすりと眠った夜は、あたかも存在しなかったような夜だ。私たちが眼を閉じることのなかった夜、それだけが記憶に灼きついている。夜とは、眠られぬ夜のことだ。〟 私は当時、仕事がなく、家もなく、これから先どうしたらいいのかわからなくなって、眠れない日が続いていました。電気を消した部屋で、目を開けているのか閉じているのかもわからないまま、ただ天井を見ていました。不安で寝られませんでした。でも、シオランの言葉に出会うことができてはじめて、そうかこれが夜なのか、と気づかされました。

『千年の読書』は、社会と折り合いが悪く、本の中でなら、ようやく息ができたという経験を持つ、すべての人のためにあるひとつの記録(事例)だ。三砂さんの正直な挫折の吐露に揺さぶられまくりで、積読が増えるという副作用はある。そっか、商売っ気がなさそう、なんて書いたが、三砂さんは本をたくさん売ってしまう人なのだ。実際、本書を読み終えた私のカートには、新たに12冊、15,425円分の本が放り込まれている。せっかくだから、梅田蔦屋書店で買うことにしたい。


本棚は触れることのできる無限です。この中から毎日、おとずれる人にその人だけの一冊が選ばれるのは「偶然」を通り過ぎて、ほとんど奇跡です。

2022年はますます人に会うことをやめたい。編集者としては致命的に人に会うのが嫌いだが、よほど会いたい人にしか会わないことにしたい。人と本を天秤にかけていく。パンパンになったカートを前に(見えないけれども)、今、そんな気持ちになっている。



***

contact me

bottom of page