top of page

わたしにしか、書けないものは、ある:哲学的文章読本『三行で撃つ』

※ 新刊『百冊で耕す』刊行直前のタイミングで、前著『三行で撃つ』の7刷が決まりました。めでたい! 7刷を記念して、2022年1月8日のnote(アカウント閉じちゃった)より再掲します。



三行で撃つ
『三行で撃つ』近藤康太郎(CCCメディアハウス)


百年遺すつもりで、本を作った。


「千年の読書」に、なる。なんて、欲はさすがにかかないけれども、百年後も読まれるに値する文章読本にはなった。自負は、ある。


著者の近藤康太郎さんは、私の心算など知りはしない。でも、榛原の勝負便箋に、単行本書き下ろしの依頼状を書いたときから、私はひそかに戦ってきたつもりだ。この人の文章を私が死んだあとにも遺したい。そして、この人の文章を百年後に遺せる人間がいるとしたら、それは、私しかいない。そう思ったから。


なぜ、ずっと、その文章に惹かれてきたのか。


近藤さんは細部まで計算し尽くして、めちゃくちゃ繊細な文章を書く人だからだ。自分の弱さを嫌というほど知っている人だからだ。家に風呂もテレビもなかった子ども時代の貧しさを、読むこと、努力し学びつづけることと、そして書くことによって見返した人だからだ。


飽きっぽい私にしては珍しく、近藤さんの書くもの「だけは」二十年以上ずっと、追い続けてきた。著書はすべて、一部ソラで言えるほどくり返し読んだし、新聞をチェックして名前を見つけたらその日はいい日だった。近藤さんは雑誌にも書く。だから寄稿しそうな媒体は定期的にアーカイブに当たるようにしていた。もちろんそれだけ探しても、すべて網羅するにはほど遠く、私はグーグル先生の限界を、近藤康太郎ストーキングから学んだ(知らんけど)。


近藤さんは場合に応じて流れるように端正な美文も書く。しかし、新聞連載「アロハで猟師してみました」で知られる、タフで口は悪いが、インテレクチュアルな文章がやはり白眉だろう。端正を崩すお洒落、みたいな。そんな高度な技巧が必要な文章も、完全にひょいと乗りこなしている。かっこよすぎ。でも。でも、と、私は思う。かつて、近藤さんだって書いていた。


かっこいい。けど、かっこよすぎる。かっこよすぎるとは、かっこ悪いことなんじゃないか? ――『ジョーが灰になる最終回、あの人の不在 格差社会の泪橋』「朝日新聞」2018年6月17日

スタッカートで刻み込むみたいな激しい文体で、ひた隠そうとしているのは、小さい存在である、自分。少なくとも私はそのように読んできたから。近藤さんの文章には、どうしようもない哀しみが、いつも滲んでいる。二十年前、私はそこに美が宿っているのを見つけたのだ。


人生に幾度か、決定的な絶望があった。裏切りにも遭った。心だけではなく、身体も傷ついた。自分という人間に価値はない。知ってる。でも、そんな当たり前のことが苦しいだなんて、私はなんて俗っぽく、卑小でくだらないんだろう。夜明けに一人で考え込むようなときなどは、近藤さんが書いたフレーズを読み返してみることがあった。


今晩中に高円寺の原稿を書きあげなきゃならないのだが、どうにかなるだろう。どうにかならなかったら、その時にまた、どうにかなるだろう。 ――『B級カルチェ・ラタン 高円寺』(「AERA」2004年9月27日)

一面記事を書いていたのは、折り合いの悪い一年先輩の記者だった。記事を書いていたその先輩に「たばこを買ってこい」と言われ、カネを投げられた。カネを拾い集め、自販機を探しに外に出ようとしたところで猛烈に頭に血が上ってきた。部屋に戻って、その先輩の額に硬化を投げつけ、一発殴って、そのまま会社を辞めよう。引きつった顔で思い詰め、部屋のドアノブを握ったところで、手が止まった。特ダネ記事を書くため、戦場のようになっている支局で、何も仕事をしていない、いや、特オチしかしていない新人記者に、感情を爆発させる資格はない。引き返し、自販機を探しに出た。たばこを手にしたら、涙が出てきた。物心ついてから今日まで、泣いたのは、後にも先にもあのときだけだ。 自分の居場所が、世界のどこにもなかった。 ――近藤康太郎『「あらすじ」だけで人生の意味が全部わかる世界の古典13』

幸や不幸はもういい。生きる意味を、問わない。人生を生きる意味は、実際に人生を生きるそのことの中からしか立ち現れない。人の幸せは、自ら幸せになることにしか現前しない。 ――『名著で読み解く幸福とは何か』(「AERA」2012年7月2日)

本を開く。あるいは切り抜きを探る。そこに、救いは、必ずあった。近藤さんの文章に、裏切られたことは、いちどもない。いくら読み返したところで、立ち直れはしないけど、せめて大見得を切って、この世界に自分の脚で立つ。そういう力を奮い立たせてはくれた。女々しく、しようもないから良かった。そんな己ではあるが、涙はすべて筆一本で塗り替えてみせる。それが好きだった。かっこよかった。かっこ悪いから、めちゃくちゃかっこよかった。


いつか、編集者としての自分に力がついたら、そのときは。


ぼんやり、そんなことを考えるようになったのはここ十年ほどだ。救われたから、恩を返す。そんなにわかりやすい美談というわけでは、けっしてない。それでも、もし私に本を作らせてもらえるのなら、できることはなんでもやりたい。そういう気持ちを、ずっと持ち、編集稼業をやってきたつもり。


思えば、あの日、榛原の便箋を取り出すまでには、長くかかったわけですが。


勝負便箋はずっと、榛原の紅ふち

梅田蔦屋書店のフェアに推薦する、末永く読み継がれてほしい「私の #千年の読書 #千人の読書 」は、近藤康太郎著『三行で撃つ 〈善く、生きる〉ための文章術』です。


世界は変わらない。常に醜い。人生は無価値だ。人間は愚劣だ。では、なぜおまえは生きているのか。文章など書いているのか。 世界は、よくも悪くもなりはしない。それでいい。ただ、世界の、人間の、真実を見つめることはできる。 ――近藤康太郎『三行で撃つ』P290

あの名文は、どうして生まれるのか? 文章がちょっとうまく書けたらと思う人たちに向けた、文章術の実用書です。とはいえこの本は、所謂、王道の実用書ではありません。メソッドだけを効率よく学び、納得し、読み終わる。そういうことであれば、たぶん、もっとドライにノウハウだけを網羅した良書が、ほかにたくさんあります。


情報やノウハウは時とともに変化していきます。でも、人の心は、感情、思想、人間の真理は、時を超える力があります。そして、この文章読本には、書くという行為の本質、人間の真理が書かれています。


言葉にならない感情、言葉に落とせない思想は、存在しない。言葉にならないのではない。はなから感じていないし、考えてさえいないのだ。 ――同書P124

ノウハウもメソッドも、結局使う人次第です。それらは「手段」でしかありません。書くことの本質や切実さは、「その人の在り様そのもの」にある、ということを改めて実感できる1冊です。時を超えて読み継がれていくことを、願ってやみません。


***

最新記事

すべて表示

2020年の担当書を振り返る

2020年は11冊つくりました。著者、デザイナー、イラストレーター、カメラマン、校正者と、人に恵まれた1年でした。楽しかったな。担当本を一気、振り返り。 目次 赤松利市 著『下級国民A』 寿木けい 著『閨と厨』 村井理子 著『兄の終い』 鈴木智彦 著『ヤクザときどきピアノ』...

Yorumlar


contact me

bottom of page